皆で遊ぶ楽しさを体験しよう – 「森へ行こう」より

ブログ「森へ行こう」に、こんなのがあった。以下一部抜粋。

おもちゃでも、ゲームでも、テレビでも、パーソナル化された遊びでは相手に合わせる必要はありません。そのような、パーソナル化された遊びに慣れてしまっている子は、相手の気持ちに合わせて群れて遊ぶことが出来ません。だから、「みんなで遊ぶ楽しさ」を体験することが出来ません。だから、群れて遊ぼうとはしません。だから、いつまで経っても、「みんなで遊ぶ楽しさ」ではなく、「パーソナルな遊びの楽しさ」しか知らないまま大人になっていきます。

でも、「パーソナルな遊びの楽しさ」しか知らない人は、子育てにおける「子どもと一緒の生活」を楽しむことが出来ません。そして、子どもの心に合わせることが出来ずに、子どもに「一人で遊ぶおもちゃ」を与え、指示命令だけで子どもをコントロールしようとします。

そして、歴史は繰り返していきます。でも、今ではそのような繰り返しになんの問題も感じていない人がいっぱいいます。

確かに、個人レベルではそのような子育てをしていても、子どもがパーソナルな遊びしかできなくても大した問題ではありません。

でも、そのような子育てをしている人、パーソナルな遊びしかできない子が社会の中でどんどん増えていってしまったら、これは非常に困ったことになってしまいます。

家族が崩壊し、地域が崩壊し、教育が崩壊し、モラルが崩壊し、政治が崩壊し、未来が崩壊してしまうからです。そして、今この流れは明らかなものになり始めています。

それでも、「自分さえよければよい」と考えている人達は、「そんなこと自分には何にも関係ない」とか、「勝ち組になればいいんだ」と気楽に考えています。でも、みんなが一緒に乗っているような船の中で自分だけ勝ち組になっても、その船が沈んでしまうような場合には何の意味もないのです。

この流れと繰り返しを止めるためには、大人がまず「群れて遊ぶ楽しさ」を体験していく必要があるのです。

それは「意識のパーソナル化へのレジスタンス」です。生活や道具はパーソナル化しても意識はパーソナル化してはいけないのです。

子どもはそのような大人の姿を見て、「群れて遊ぶ」事に対する興味を持ち始めるのです。

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先日娘のクラスメートのお宅へ伺ったときのこと。

さて、何をして遊ぼうか、となったとき、DS(携帯ゲーム機)や、Wii(コンピュータのインタラクティブ・ゲーム)などのオン・パレードで、「しまった!」っと思った。

初めてお邪魔したお宅で、お母さんともそんなに親しくないので、どこからどう切り出したらいいのか、ちと困った。

うちではゲームやらせてないので、そのルールを娘は自然に守って、「私は見てるだけでいい」と言って参加しなかったのが、よかった。(でも、もちろん釘いったように、次々に3Dで展開する鮮やかな画面をじ~っと見つめていた) しばらくして、では、何か一緒に遊べるものにしましょう、ということになって、二匹の子犬になったかのようにじゃれあって、ベッドの上で飛び跳ねたり、でんぐり返しなどをした。(ほっ)

ゲーム機は、何かを学んで自分の能力を伸ばしたい、という子供たちの持つ自然な無意識を刺激し、簡単にそれが実現したかのように感じさせるシュミレーションだと思っているので、うちでは持っていないし、やらせていない。

先日フェリーの上でいつものように何かお絵描きをしていると思ったら、「自分で自分のゲームを作った」と、自作の迷路を見せてくれた。円の外に出発点があって、怖そうな目のサメがところどころにいて、それにぶち当たらないように、中心の「ゴール」までたどる、というシンプルなものだったけど、すごくいいな、と思った。

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