雷はどうして起きるか?

森へ行こう、というブログを楽しく読んでいる。http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diaryall

最近、科学の楽しさ、遊び方について読んだので、雷雨のあった日曜日、彩に「雷って、なんで起きるんだろうね?」と聞いてみた。

すぐに、いとも当たり前のような顔で、「雲と雲が喧嘩して、怒鳴りあうからだよ、お母さん」との返事。「じゃぁ、雨はどうして降るんだと思う?」と聞くと、「喧嘩すると泣くでしょう?だから雨は雲の涙なの」

「じゃぁ、風は?」

「神様が空の上で、ふぅーっと息をふくから」 「で、くすのきは、ざわざわ、という音をたてて、神様にお返事してるのよ」

ファンタジーの世界、語り話の世界だ、ヨカッタ!

以前イギリスの有名な絵本作家の「描き語り聞かせ」に出かけたときのお話(写真)を思い出した。

以下はワンパク父さん、森へ行こうの一部抜粋。

子どもは現象の説明ではなく、その現象が生まれる背景を知りたいのです。そして、それこそが宗教と科学を生み出してきた心の働きなのです。ちなみに宗教と科学は兄弟です。

科学は現象が生まれる背景を追い求めることでここまで発達してきたのです。その「追い求める心」こそが科学の本体です。

その時、子どもは自分の心が納得する仮説を立てます。それが「物語」になります。ですからその「物語」を否定してはいけません。むしろ逆にもっともっと「物語」を楽しむことを教えてあげて下さい。

すると、その子の才能にあわせて、ある子は芸術家になるでしょう。ある子は文学者になるでしょう。ある子は哲学者になるでしょう。そして、ある子は科学者になるでしょう。

ただし、これは必ずしも「職業」を意味していません。そのような「ものの考え方」をするようになると言うことです。

熱心に科学教育をすれば誰でもが「科学的」に考えるようになるわけではありません。同じことを教えても、芸術的に受け取る子、文学的に受け取る子、哲学的に受け取る子、科学的に受け取る子がいるのです。これは素質(気質)が大きく影響しています。

それは、同じものの絵を描かせても、色にこだわるこ、形にこだわる子、構図にこだわる子、似ているかどうかにこだわる子など、色々な子がいるのと同じです。

でも、子どもが考える物語(仮説)を否定してしまったら、そのいずれの才能も育たず、ただ言われたままに働く労働者にしか育たないと思います。

どんなことでも、人が自分の頭で考えるためには、まず仮説を立てることから始める以外にないからです。だから、仮説を立てることが出来ない人は、自分の頭で考えることが出来ないのです。

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