連帯すれば、できること — 福島住民のプレゼン文書 (必読のレア文書!)

先日書いた、香港理工大学での3.11フォーラム。 そのオーガナイザーが、日本人プレゼンター岩倉美穂さんのプレゼン文書を送ってきてくれた。

岩倉さんは、自分の持ち時間のうち出来るだけを、参加者とのQ&Aにあてたいと言い、プレゼン文書を印刷物で配布した。

以下はそのコピー。

この人一筋通ってる!と思うので、少し長いけど、是非お読みください。

香港はもとより、日本でもレアな内容かもしれないから。 (このブログページ上で読みやすいよう、改行スペースを加えましたが、内容は原文のままです)

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今、福島で起こっていること

岩倉美穂

岩倉美穂と申します。夫が福島県のあづまタクシーの「全自交吾妻分会」という組合の委員長で、10年あまりに及ぶ労働争議を組合員とともに闘ってきました。

「あづまタクシー」社長の給料遅配や退職金の未払いに始まり、社長の息子の常務のあまりにひどい嫌がらせに、組合は何度も団体交渉申し入れ会社と交渉してきましたが、2007年3月に会社が偽装倒産に乗じ、23名の組合員のみ解雇、新会社を非組合員社員で再開しました。

会社に文句をいう組合だからという理由のみで首を切られたことに組合は怒り、社長の家に押しかけたり、裁判を闘ったり争議を行い、2010年3月に新会社のダミー社長が新会社を組合に譲渡し放り出して逃げたため、私が社長になり、組合員-労働者中心の会社を運営していくことになりました。

初めての会社経営なので大変なことも多く、何より前社長が残していった負の遺産―税金の多額の滞納、給料遅配、多額の使い込みを一つ一つ整理してようやく経営が軌道に乗り始めた1年後、自宅でこれからの経営について会議を始めようとした瞬間、大地震が起こりました。

今まで経験したことのない大きな地震が来た直後、余震の中とにかく会社に向かいました。道路には亀裂が入り、信号も電気も消え、道端にたくさんの人が出てきて呆然としていました。

かなり強い余震もありましたが、なんとか会社に到着。電話不通で仕事にならないので社員を帰しました。

電気・ガス・水道がほとんどの家庭でストップし、何よりガソリンが届かず、ガソリンスタンドの前に2時間3時間待ち、それでも入れられないということもありました。

テレビは見ることができず、ラジオは宮城県のほうでかなり大きな津波が来たらしい、という情報や給水場所の情報などを流していました。携帯電話はつながらず、電気もないので充電もできず、という状態でした。

とにかく落ち着いてきた14日ごろ、「原発が危ないらしい」という噂が聞こえてきました。しかし、私達の家は原発から80キロほど離れていたので、とりあえず大丈夫だと思い、何かあれば国や行政が教えてくれるだろうと思っていました。

3歳と6歳の子どもが心配だったので役場に「ヨウ素剤ありますか?」と聞きにいったところ、「何をいっているのですか?そんなものはありません」と全く相手にされず、大丈夫なのだということを確信しました。

後日談ですが、ヨウ素剤が必要とされた原発付近の地域では役場にヨウ素剤は配布されたものの、住民へは知らされず「ヨウ素剤あります」という小さな張り紙が貼ってあるだけで住民はヨウ素剤を投与できなかったそうです。

原発が大爆発を起こした15日の夕方、福島市はものすごい吹雪でした。

ガソリンのない社員を車で自宅に送ったあと、ものすごい寒気がして高熱を出し寝込んでしまいました。このとき、吹雪にまじって大量の放射能が降り注いだということは、爆発後数日後に報道されました。

政府は把握していたにも関わらず、です。そうとは知らず福島県民は、給水に子供達と並び、ヒロシマの原爆の200倍もの放射能を含んだ吹雪を浴びました。

翌日16日の朝、寝込んでいると県外の知人から「今すぐ福島県から逃げろ! 子どもだけでも逃げさせろ!」と電話があり、ふらふらになりながら荷物をまとめ、ガソリンがなくなりそうな車で隣県の山形県の知人宅に身を寄せ、避難生活が始まりました。

現在、私達家族はそのまま山形県で暮らしています。私は福島県に会社があるので、車で片道2時間を一日置きに通勤しています。

これからどういう動きになるかわかりませんが、現在のところ県外に避難した人は5%程度、残り95%は福島県で生活しています。

また、福島県民で避難した人の多くは子どもとお母さんで、お父さんは生活のため仕事を辞めるわけにはいかないので福島県に残り、家族がバラバラに生活しています。

耐え切れなくなった人が福島県に戻る例や離婚してしまう例もあります。

原発から30キロ圏内の強制避難区域など国から指定されている地域を除き、私が住んでいた町など80キロ離れているところは、土壌汚染がチェルノブイリの強制退避区域並みの放射線量があるにも関わらず、ほとんどの人が避難をしていません。ですから私達は「自主避難」といって自己判断で避難していることになっています。

福島県全体があらゆる種類の放射性核種で満たされ、原子炉の釜の中に暮らしているのと同じです。それにも関わらず、政府は避難勧奨はおろか、「低線量被曝は健康被害がない」ということを伝え、福島県にとどまっていても大丈夫だといっています。

原発が爆発したという報道がされた直後、「子どもは大丈夫なのか?」「水を飲んでも良いのか?」という疑問に対し、政府はいち早く対応し、震災の混乱もまだある21日、福島市が開いた講演会で福島県放射線健康リスク管理アドバイザー山下俊一氏は「チェルノブイリと違い、健康リスク全くない」「ヨウ素は8日で半減するので大丈夫」「毎時100マイクロシーベルトを越さなければ健康に影響を及ぼさない」「今、皆さんが最も信頼できるデータは何か・・・(中略)信じなくてはいけないのは、国の方針であり、国から出る情報です」と発言し、その内容をチラシにして全戸に配布し、市民を「安心」させました。

このせいで、避難しようとしていた多くの人たちも福島にとどまることを決意しました。この山下氏は今福島県の放射能についてのご意見番で、彼の発言は福島県の意思であるので、県民は半分疑いながらも、行政を信じるしかないのです。

「除染」も始まりましたが、山や緑が多い福島の豊かな自然が逆に仇となり、土に染み付いた放射能を取り除くこともできず、その取り除いた放射能の塊も捨て場所がなく、あきらめる人もでてきています。

信じられないことですが、「除染」作業を子供達に手伝わせている小中学校もあります。

震災1年後の現在の福島は、ヒロシマ原爆の200倍の放射能がばらまかれ、世界で放射能に汚染された「フクシマ」と名をとどろかせたにも関わらず、ほとんどの人が避難をせず、子どもも大人も生活しています。

爆発後数ヶ月、福島市では洗濯物など外に干す家庭は少なかったのですが、今では何事もなかったように、普通の生活が営まれています。

子供達は極力外出しないように、ということで登下校はマスク着用、夏でも長袖長ズボン、体育もグランドは使わない状態でしたが、今では通常通り、グランドで運動をし、放射能がたくさんまじった土に子どもたちはまみれています。

避難をしない圧倒的多数の人が、�@避難できる経済力がない、�A安全だという情報しかないので避難する必要がないと思っている、�B生まれ育った地を離れたくないという理由でとどまっています。

政府は、日本は大丈夫、原発も大丈夫、放射能は恐くないということしか言わず、テレビも芸能人の離婚などがトップニュースで、日本はまた平和で安全な国に戻ったという気さえしてしまいます。

しかし、一方で前述の山下俊一氏は、「これから福島はものすごいことになる」、つまり世界が経験したことのない低線量被曝の経験ができると平気で口にしています。

その証拠に、福島県の子供達は首から「ガラスバッチ」という線量計を下げていて、どれくらい線量を浴びているかを計測し、それを提出することになっています。

その結果は本人に知らされず、「実験データ」として保存されます。フクシマの人々は正確な情報も与えられず、モルモットとして低線量被曝の実験台になっています。

また福島県立医科大学では建設ラッシュで、たくさんの研究所が作られています。

今目に見える形で被害が出ているのは、農産物です。土が完全に汚染されているので、農薬を使わずまじめに有機栽培をやってきた農家ほど大打撃を受けています。自殺者も何人も出ていますが大きく報道はされていません。

福島は果物王国でしたが、実際に大量の放射能物質が検出されたものはもちろん、殆ど出ていないものでさえ「風評被害」で福島県産は全く売れません。

闇で福島県産の農産物を安く買い叩き、放射能がたくさん含まれた食べ物も出回っているようですが、把握することは不可能です。水一口飲むにも、食べ物一つ食べるにも「これは大丈夫なのか?」と思いながら子どもに与えています。

これは福島だけでなく、日本全国にいえることです。

私は学生時代、左翼学生運動をやっていました。原発から出た核のゴミ捨て場である青森県の六ヶ所村に行きシュプレヒコールもあげていました。

沖縄の基地に反対し、沖縄に何度も行ったし、国会デモにも何度も行きました。もちろん原発にも反対でした。

しかし学校を卒業し労働者になり、母となってからは日常の生活や仕事が忙しく、運動をする時間から離れていました。そしてその直後原発が爆発しました。

福島県内にいた反原発の活動家は原発の恐怖を知っているが故にいち早く福島県を離れました。反対運動経験者の私も、原発爆発の前に全く無力でした。

とりあえず避難ができてよかったということ、会社の経営や子どもを守ることなど自分の身の回りのことが精一杯です。

この震災の経験を経るまでは、チェルノブイリのことも、イラクのことも、基地の島、沖縄のことも原爆を落とされたヒロシマ・ナガサキのことでさえも、「他人事」として怒り、反対していました。

「他人事」として「かわいそう」と思っていました。原発は恐いけど、反対してもすぐどうにもならないし、まさか事故は起こらないだろうと思っていました。

しかし、そのような「甘さ」が原発をそのまま存続させ、今回の大惨事を引き起こしたのです。恐らく皆さんも、日本のフクシマという一地域で起きた悲劇として捉えられているでしょう。

しかし、原発がある限り、チェルノブイリやフクシマのように、生まれ育った地域に住めなくなり、子どもや若者が真っ先に癌や白血病になり、死に、流産が多発し、子どもが先天的異常をもって生まれてくるのです。

そしてそのようにして真っ先に殺されていくのは避難ができない95%の圧倒的多数の労働者人民とその子供達です。原発労働者ももちろんですが、一般の労働者人民です。

私の会社に20代前半の事務員さんがいます。一度避難したものの、避難先で仕事がみつからず、戻ってきて福島で働いています。本当に切ないです。

この震災で心の底からわかったことは、国は絶対に国民を守ってくれないということ。これは反戦運動をしていて当たり前にわかっていたことなのですが、どこか国に対して幻想をもっていました。

「左翼」政党も、既成の大きな労働組合も何も教えてくれないし何もしてくれません。今まで経験のない出来事なので、全く先が見えません。国に見捨てられたら、現実をあきらめて生きていくしかありません。

将来何が起きる? そんなこと考えたくない。今だけを見て、今までどおり生活するのだ。生活するしかないのだ。それが今、フクシマで生きるということです。

低線量被曝は弱火でコトコト煮ていくようなものだそうです。避難せずフクシマに残っている大勢の人々は、今、これからフクシマでジワジワと殺されていきます。

福島県では野鳥が激減しました。卵が孵化しないそうです。サラサラとした鼻血が何日も止まらない子どもがいます。人類が未経験の本当に口にも出したくない事実ですが、見据えなければいけない現実です。

よく、「フクシマの人は何故怒らないのか?」と聞かれます。私は、フクシマで何も起きていないように見えるからだと考えます。

建物はある、職場はある、学校もある、バスも走っている、子どももいる、大人もいる、緑も豊かで花も咲く。誰も逃げろとは言わない。そこに見えない、匂わない放射能が存在しているだけで何も変わらない福島がそこにあるからです。

こんな大惨事が起こっても、原発廃絶の動きは鈍いです。原発がある地域は貧しい過疎地が多いので、原発がなくなると経済的に大変だからです。

原発に依存せざる得ない構造が作られています。

各地で原発反対の集会が行われていますが、殆ど報道されません。テレビ局の大スポンサーが東京電力だからです。

震災から1年が経ちました。

今、自分が「フクシマ」の人間として厳しい現実を突きつけられたとき、改めて本当の意味の労働組合の存在意義を噛み締めています。本来労働組合は、圧倒的弱者であり、圧倒的多数である労働者が団結して大きな敵と闘う存在であると思います。

しかし、日本の殆どの労働組合は、組合費だけとって、いざ会社と闘うとき、闘ってくれず団体交渉の度に労働条件が会社のいうままに後退していく。初めは勢いのよかった委員長も懐柔されて労働貴族になっていくという幻滅から、組織率はどんどん下がっています。

特に若い人は労働組合に意義や魅力を感じていません。若い人は多くが正社員にもなれず、派遣労働といって使い捨てにされているので、組合員になるチャンスさえありません。

私達全自交吾妻分会は、心ある日本全国の労働組合から支援を受け、労働争議として福島県では歴史的な大勝利を収めました。労働者で会社を自主経営し、裁判で多くの不動産を勝ち取りました。

組合員としては20数名という小さな組合ですが、多くの困難もお互いを信じ、時にぶつかり、ここまできました。

組合の上部組織は全く支援してくれず、むしろ闘うなといってきました。まったく頼りになりませんでした。だからこそ、自らの闘いで築いてきたこの小さな組合と、殆ど負け戦だったこの争議を最初から信じて支援してくれた日本全国の労働組合はかけがえのない仲間なのです。

今こそ労働組合の存在意義を確認し、労働者人民の全般的生活-労働条件のみならず、労働者自身、そして家族の生活、健康を守れる砦としてフクシマで希望を作り出していきたいです。

この絶望的な状況でも希望の種を植えていかなくては、これから未来を担う子供たちに申し訳がありません。

中国の皆さんには日本人に対して複雑な思いもあると思います。私自身、かつて日本という国がしてきたことを思うと日本人としてみなさんの前に顔もまともにあげられません。

しかし、このフクシマの大惨劇を出発点にして労働者が階級として一つになり、中国、世界の労働者人民と連帯して、人類とは共存できない世界中の原発を廃絶し、圧倒的多数の労働者の生活や健康が脅かされることのない世界を、私達の子供達の世代につないで行きたいです。

一人ひとりができることは何か。各々が自分の両手を伸ばした範囲-自分の職場での理不尽や、自分のそばにある原発に対して闘っていくことだと思います。

そうすれば伸ばした手が隣の人とつながっていく、それが労働者の団結であり連帯だと思います。

ありがとうございました。

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